プロフィール写真

随分前からなんとなく、でもずっと気になっていること、それはプロフィール写真。

ここで言うプロフィール写真とはラインと、ヨーロッパのライン的存在であるワッツアップのみを指している。というのも、私はアナログ人間ツイッターフェイスブック等のソーシャルメディアとお付き合いが全くないのだ。

あくまでも番号交換をした友人との付き合いを前提にしたプロフィール写真であるから、素直に自分の顔の写真をアップしている人も多い。あとよく見るのは景色や動物、子供。

そう、気になるのは、子供がいる友人のプロフィール写真。

子供だけの写真や自分と子供が一緒に写っている写真をプロフィールにしている人がとても多い。プロフィール写真の更新に気づく度、素直にかわいいな、と思うのとほぼ同時に、少しの違和感を禁じ得ない。


だって、自分じゃないじゃん。


いや、景色も動物ももちろん自分ではないのだが、それらの被写体に人格はない。綺麗に撮れた、もしくはただ単にかわいい、そうした当たり障りないけれど本人には愛着のあるものと、愛着ならこれ以上ないくらいあるのだろうが自分の子供とは次元が違うと思うのだ。

おもしろいのは、家族写真、つまりパートナーを含めた写真をプロフィールにしている人はほぼ皆無だということ。目にするのは子供だけか、子供と本人。察するに、パートナーは家族といえども別の個人であって、アカウントも別で持っているし、自分のプロフィールとして公開するのはちょっと…という意識的もしくは無意識的な選別がなされているように思う。

では、子供はどうなのか。子供は自分の分身、一心同体ということなのか?

確かに、生まれたばかりの赤ん坊の面倒をみる親は子供を自らの分身と感じることに違和感はそこまでなさそうだ。ほぼつきっきりの世話が必要になるのだし、母親なんて妊娠中は文字通り一心同体だったわけだし。

しかし。それでもしかしと思ってしまうが故の違和感である。自分の子供といえど別の人格を持ったひとりの人間。まだ小さいとはいえその子の写真を自分のプロフィールの顔にしてしまうのは違うんじゃないかなと思う自分がいる。もちろん人が何を自分のプロフィール写真に設定するかは個人の自由だし批判するつもりは毛ほどもないのだが、自分ではやらないだろうなと思うのだ。

ただ、周りの友人たちがちらほらと子供を持つようになって数年。増え続ける子供のプロフィール写真を見ていたら、この違和感は私が親でないから持つもので、もし自分の子供ができたら、即、我が子のかわいいかわいい写真を自分のプロフィールとして公開し始めるのかもしれない、という考えがよぎった。

目下、近々親になる予定の私のもっぱらの関心事は、自分のプロフィール写真が今後どう変化していくかということである。