菜食主義者

ヨーロッパにはベジタリアンが多い。というか、最近は一種のブームであるとも言える。

菜食主義というとまず思い浮かぶのは「肉を食べない人」だと思うが、ひとくくりにベジタリアンと言っても、魚は食べる人から、野菜も一定の温度以上に熱したものは食べない(ローコスト)という超ストイックな人まで色々いて、それぞれに呼び名も違うらしい。ビーガンは日本でも聞くことがあるが、肉魚だけでなく牛乳や卵など動物由来のものも食べない人のことを言う。

私が初めてベジタリアンという言葉を聞いたのは初代ジュラシックパークの映画の中でだったと思う。よくは覚えていないのだが、恐竜を見物人の前に引き出すために生きた羊が提供され、それを見た男の子が嫌悪感を示す。隣にいたおじさんの「君もラムチョップを食べるだろう?」という問いに対し、男の子の姉である女の子が「私はお肉は食べないの」と返すシーンだ。自分が何歳のときに見たのか正確にはわからないのだが、小学校低学年くらいだろうか。肉を食べない人がいることが信じられなくて、冗談だと思った。

しかし今は、菜食主義が様々な主張に基づいた意思表示であることを知っている。それは宗教であったり、動物愛護であったり、環境保護であったり、生きた動物をモノとして扱う畜産業に反対であるため、と少し挙げるだけでも本当に様々だ。

これらの主張を頭で理解することはできるのだが、それが菜食主義に直結するところが私にはわからない。宗教は理解するものではないため置いておくとしても、動物愛護の保護対象は基本的に哺乳類に限定されるためそれ以外の命と区別する姿勢がわからないし、畜産業における過剰な能率化に反対であれば、値段は高くなるがそれとは逆の取り組みで自然に育てている農家の肉を選べばいいと思う。環境保全の場合は肉を輸送する際に発生する二酸化炭素が問題なのだろうが、それは野菜にも言えることで、自分が住む国・地域で育てられたものを積極的に買うようにすればいいのではないか。確かに、ファーストフードの広がりや物流の発達などを受け、自分が口にするものの成り立ちが見えにくくなった現代において、その食べ物はどこで、どうやって育ち、どのように加工されているのかを考えることは有意義だと思う。私もスーパーで安売りされている肉を見ると、動物を育てる環境や手間、更に加工における人件費と輸送費を加味して価格とのギャップに考えてしまうことがある。しかし、それが菜食主義に繋がることが理解できないのだ。

ただ、理解は出来ずともその主張を尊重しようとする気持ちはある。何を隠そう私の夫は魚も食べないベジタリアンなのだ。家で料理する頻度は私のほうが断然高いが、基本的にふたりで食べられるよう、肉や魚は使わない。勿論、自分だけのために肉や魚を調理することもあるが、そういうときも何かしら野菜のみの副菜を作る。彼の菜食主義という主張はこの先も理解できるとは思えないが(というより習慣化してしまって彼自身わからないらしいのだが)、お互いが尊重し合うことはできる。

私がアレルギー反応を起こすのは、この菜食主義が一神教の様を呈するときだ。すなわち、自分の主張を唯一正しいものとし、異なる主張を間違っていると決めつけ、更にそれをおせっかいにも正してやろうとすることである。

これは迷惑以外の何物でもない。

大学にいた頃、日本語を習いたいからとお茶に誘われ、2人の女生徒と何度か会った。当時新しく買ったホットサンド器がマイブームだった私は、家で作る出来たてチーズトーストがどれ程美味いかについて雑談として話したのだが、彼女たちは顔を見合わせ、「私たちは動物由来のものは食べないから」と言った。そして、成人してからも母乳を摂取し続ける動物は人間だけなこと、そしてそれがどれほど動物として自然に反したことかをかわるがわる力説し始めたのだ。

正直、開いた口が塞がらなかった。私は決して美食家ではないが、美味しいものを食べたいという欲求は人並みにあり、それを自分の経済状況が許す限り実行する権利がある。別に彼女たちに自分が作ったチーズトーストが美味いからどうしても食べてくれろと強要したわけではないのに、なぜ自分が好きでチーズを食べることを批判されなければならないのか?(というか、人と話している間もこまめにチェックせずにはいられない程SNSに依存しているその行動は彼女たちの言う「動物として自然」なものなのか?)

これは極端な例だが、菜食主義者の中にはこういった、自分と異なる主義主張を受け入れない迷惑な人が時々いる。こういった人と合わせて、ソーシャルメディアでトレンドを取り入れたいがためだけにストイックなベジタリアンになり、結果体調を崩すインフルエンサー達を、私はとても冷ややかな目で見ている。